もしかしなくても年明けた
手帳が買いたくなると年末年始という感じがする。
3年連続で使わなかった上に3年連続で年半ばにして紛失したのでもう買わない。
2018年がやってきた。無限の時間を人間が捉えやすくするためザクザク切り分けただけなのに、どうしてこうも年が終わるとか始まるとかいう感覚があるのだろうね。
染み込んだ感覚と、世間からの圧倒的な同調圧力でもって、私は強引に"年を越している"のである。自分の周りがみんな今日は2018年1月1日!と言うからそうなのね、と納得しているフシがあるような。
世俗を離れれば、年を明かすこともないのだろう。ただ、それでは少しばかり暮らしが単調にもなりそうだ。多少強引でもどこかに区切りがないと、リセットの機会を失いそうなもの。リセットせずとも、機会があるほうがいいだろう。
考えてみれば区切りというのはすべからく強引なものだ。
かならずどこかで恣意的な線引きをしないと、区切りは生まれない。線を引くにはエネルギーが必要だ。"強”く”引”かねば、区切りはどんどんうすれていってしまう。
年の移り変わりというのは、社会に最大のパワーでもってグリグリと引かれた線を意識することにほかならない。自分で線が引けないからこそ、社会が引いた線を有効活用するべきなのだろう。
心機一転、一念発起。
掲げては消え行く目標を、性懲りもなく今年も掲げておこう。
掲載料はタダだものね。風で吹き飛んでも拾う必要はないし。
一線を画すために、その線を描くために、まずは少々の覚悟をもって年をまたぐ。
本年も、どうぞよろしくお願いします。