色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

【小説】重なる糸

糸が、切れそうだ。

上を見ながらぼんやり思った。

ぷらぷらと落ち着きがなく、ひょろひょろと力強さもない。

自分で選んだはずなのに、どうしてこんなに不安がつきまとうのだろう。

ただ、心安らかにいきたい。それだけが願いなのに。

 

最初に思い描いていたのは、もっと太かった。

太いのがいいに決まっているのだ。望みを叶えるためには。

階段を登っていった先に、希望があると思っていた。

あの道に立ったとき、太い方を選択することだってできたはずだ。

 

でも、未練があった。まだ、信じてみたいという未練が。

それが、結果的には糸を細くすることにつながった。

 

後悔と未練を練りあわせた感情の形をしたなにかが、ずっと頭の中を支配していた。

なにをするにも、常につきまとう心細さ。

もう、忘れることすら許されない。

許してほしいわけでもないけれど。

 

ひとりになった。そしていろいろ考えた。

ほんとうに、細いままでいいのかと。

今ならまだ、なかったことにしておくこともできる。私と、笑顔をくれたあのヒトだけの秘密。

返しにいけばいい。あの紙切れといっしょに。

そうして、ドアを開けて進み出せばいい。知っている道を、知らない新しい道と思って。

もう糸の細い太いなんて気にしなくても、生きていけるだろう。

 

と、こんな割り切りができるほど強くはない。薄々感じていた。

せめて、覚悟を決める強さだけでもあったら。

きっぱり、別れを告げることができたら。

あとは手を伸ばすだけなのに。それだけのことが、どうしてもできない。

 

薄暗い部屋に、あのとき書いた手紙が落ちている。

誰に渡すわけでもなく、誰に宛てるわけでもなく。

そっと拾い上げて、読み返す。

「今までありがとう」

ずいぶん殊勝な自分がいた。

この手紙を最初に読むのは、誰になるのだろう。

読まれなくていいから想いだけ伝わってほしいだなんて、身勝手なことを考えた。

 

この部屋には長らく他人を呼んでいない。

捨てられないものがありすぎて、生活もままならない。

「生活」ということばすら、その満ちあふれるエネルギーの前に不釣り合いだ。

次にここに他人が来るとき。

それはきっと、しみついたニオイがあふれ出してとまらなくなるとき。

 

どれくらいの時間が経っただろう。

一晩にも、一週間にも、永遠にも思える長い長い時間のあとに、水の中で光も音もなにもかも見えなくなって、"今"を見失った頃に、ゆっくり立ち上がった。

もう、進むしかない。

即席の階段を、一段ずつ上がっていく。でも、すぐに途切れた。

そうか。ひとつ、ため息をついた。

ここで踊るしかないのだ。水中から飛び出した魚が、さいごの力で暴れるように。

暴れるということばが似合わないノロリとした動きで、腕を上に伸ばした。

魚に腕はないから、もしかしたらそう思っただけなのかもしれない。

 

迷惑だな。

まとわりつく感覚に顔をしかめつつ、考えたのはそんなことだった。

こうしてひとり、片付け整理しているようでも、必ず他の誰かになにかしらの感情と仕事とを負わせる。

こんなにちっぽけなのに、孤独は手のひらをすり抜けていく。

どうあがいても迷惑なんて、やめてくれよ。決意がにぶる。

 

糸が、切れそうだ。

もう上にはなにもない。

目をつぶった。みしみしと悲鳴が聞こえる。

あとは、希望の形をした絶望をこの足でチョンと蹴り飛ばすだけ。

どうなるかな。こんなことまでして、骨が折れるな。それで済むのかな。

 

 

 

 

 

2本の命の糸が、揺れている。

私のしおれた命の糸と、梁から垂れた命の糸。

 

どちらの糸が細いのか。

どちらの糸が切れて、どちらの糸が残るのか。

 

 

 

そしてもし、2本の糸が重なっていたら。

2本同時に、切れたとしたら。

 

 

そのときは、命の糸を買いに行こう。もう一度。今度はもっと、太いやつを。