色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

伝わるものも伝わらない素直さの欠如

管楽器の話をする。

キレイな音を出すためには、正確なアタックと、均一な量と圧と温度とを備えた息が必要だ。慌てて息を入れるのも良くなくて、余計な力を入れず自然に呼吸をするように、"想い"を管に吹き込んでやるのだ。そうして、音はまっすぐに飛んでいく。

アタックに引っかかりがあったり、息にムラがあったりすると、当然音はキレイに飛ばない。多少ひしゃげていて、それでも"想い"を吹き込んでいることに変わりはないのだけれど。

練習をひたすら積んでいくことで、後者の音を前者の音に近づけようとするのが、まず大半の奏者が目指し努めることである。その過程には、技術の会得がある。幾度となく響かない濁った音を鳴らして鳴らして、いずれふとしたときに体に染み込む楽器に対する"素直"さが、キレイな音を生むんじゃないかなと、ある面でそう思う。

 

素直になればなあと思うことが、ここ最近多い。

誰かに話すとか、なにか伝えるとか、なにをしたいとか、なににつけてもヘンなチカラがジャマをして、自分の素直さを押しのけている。

日々をどの場面に区切っても、その時点でやりたいことというのは必ずある。これが、きっと"素直"というやつだ。一方、"素直"が実現するまでの障壁を示す"チカラ"もまたはたらいていて、そのせめぎあいの中で行動が決定されている。

”チカラ”とはなにかというと、例えば行動対象となる人物の思考を先読みしたり、あるいは周辺環境と自分との調和に尽力したり‥‥というと聞こえはいいが、早い話が"他人が望む自分の姿"をもたらそうとする言動のことである。

社会性を獲得するのであれば多少は持っておいてもよいチカラだが、いくつか脆弱性が見つかっており、その最たる例は「自分調べ」であるということである。いくら考えても他人の考えなど正確に理解できるはずもないのに、自分で形作った"自分"を他人に押し付けようとしてしまう傾向が認められる。結果、あのときの遠慮はまったくの無意味だったなどとあとになって悟ることになる。

 

余計なことを考えず素直に息を入れれば、キレイな想いのまま伝わる。

チカラがそれにジャマをして、せっかくのまっすぐな想いがゆがんでひしゃげてつぶれて聞こえる。

どちらが良いかと聞かれたら、やはり前者ということになるのだろう。

こうして考えてみると、チカラの妨害をくぐり抜け、適度に素直を露呈するのもまた技術のひとつ。そして、もっぱら後者の音を吹き続けて伝わらないなと首をひねっている私のような人間を、不器用と形容するのだろう。

 

不器用なりに伝わる想いもあるだろうさ。ゆがんでひしゃげてつぶれた想いが。

そのとなりにまっすぐな想いがあれば、そちらに耳を傾けたくなるのが"素直"というもの。

 

私の楽器は、いつまでたってもどこか濁った音を鳴らし続けている。