色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

コラム風を吹かせて

最近書く題材はゴマンとあるのだが、いかんせん時間と集中力がなく進まない。

 

というわけで、お茶濁しの過去作紹介。

 

 

むかーしむかし、学校新聞のコラム欄(天声人語を模したようなもの)に投稿したときの文章。高2の頃か。なんだか小難しいことを書こうと背伸びしているつま先がピョコピョコと見えなくもないが、個人的には気に入っているのでなんとなく載せてみることにする。

 

 

フクロウの首はよく回る。彼らには「福籠」といった類の縁起のいい当て字が多数存在するが、「副老」と当てれば将軍に仕える名参謀、広い視野を持ち知性に長けた言い得て妙の二文字だ。翻って人間の首は、振り返るのが精一杯。なればこそ、精一杯を極めるのも悪くない

◆すると、各々がこれまで辿ってきた道は数知れないはずなのに、記憶という言葉にまとめてみるといささか実体がないようにも思える。人間の記憶は、刻みつけられると同時に圧縮され始め、限られた格納庫の中で小さくなり場所を空けて次の記憶を待つ。その過程で、圧縮が過ぎた記憶はふるいにかけたように脳という格納庫の床の細かい網目をくぐりぬけ、露と消えていく。記憶の印象の強さは圧縮に対する抵抗力に比例する、だから考査直前に慌てて詰め込んだ用語は、一瞬の後に灰燼に帰し、ふるいを揺らすこともなく消えていくのである

◆さらに、記憶の中には思い出がある。振り返ることでふと蘇る、こうした思い出には味がついている。甘酸っぱかったり、苦かったり、読みは違えど辛かったり。限られた容量の中で、人間は記憶の吟味もまた行っているのだ

◆「記憶」から「歴史」というものに拡張しても、同じことが言える。すなわち、一つの存在は、微視的には自ら積み上げた記憶の土台と、巨視的にはその土台をちょこんと載せている巨大な歴史の塊の上に立っているのだ。人間はフクロウのようには飛べまい、だから唯一足元を踏みしめる他に生きる術はない。命を支える土台がいかにして作られたのか知ることの肝要さは、歴史が他人事ではなく、自分を押し上げている原動力の一つの源であることを証明するだろう。その先の歩き方を確たるものにするために、学生は歴史を、自らの礎を学ぶのである。前途が開けていて、かつ記憶力が衰えゆく前のこの時期に

◆歴史の塊が手のつけようもなく膨れているのもまた事実だが、それゆえ歴史の圧縮と吟味が求められるし、人間は先天的にその能力を「記憶」の機能で身につけている。首のよく回るフクロウが「不苦労」なら、人間は多少首が不自由で「苦労」しても、生きるために精一杯首をもたげて振り返る生き物なのだ。