櫛の歯を欠いたまま
年をまたいで三十余日。冬の夜の冷え込み厳しく、つい半年前のうだる暑さなどなかったかのような寒一色の日を過ごしつつ、そういえばとこの場末の「ひとりごち場」の存在を思い出したわけなのだ。
スミとホコリにまみれた暖炉に、そろそろ薪をくべるとしましょうか。
謹賀新年、一攫千金、合格祈願、千客万来。
駄文に数え方なんてものがあるか、不勉強にしてわかりませんが、今年もいくらかの駄文にお付き合いくださいまし。
ものはついで。
↓ゆく年くる年について検討した昨年の正月記事。
そんなことはさておき。
この頃巷に流行るものとして、”強い言葉”を挙げたい。
なにかを称賛するとき、あるいは誹謗するとき。良いものを良いというとき、悪いものを悪いというとき。断定的な一言が口から飛び出して、評価を終える風潮があるような気がする。
「天才」とか。「尊い」とか。「虚無」とか。「○ね」とか。
こういう状況になるのも、ある程度説明はつく。
インターネットが普及して進歩して、パソコンのような媒体を通してコミュニケーションをとる機会が劇的に増えた。そしてメールやブログのような「片方向×2」、手紙のやりとりのように少しの間をおいて為されるコミュニケーションから、LINEや各種SNSのような「双方向」、直接会話しているような即時のコミュニケーションへと中心が移ったことで、「すぐに」自分の感情を伝える必要が生じた。
顔を合わせていない分、画面上に現れる会話以外の一切は「無」であり、その間を嫌う情動もこれに寄与しているだろう。直接顔を見ていれば、考えている様子や表情から読み取れることもあるが、SNS上にはたち現れない。
結果、短いことばを使ってそこに自分の感情を詰め込むことで「発言」にかかる時間を短くし、そのうち使いやすいものを「定型フレーズ」としてストックし常に手札としてすぐに出せるよう持っておくことで「発言」を考える時間を短くし、といった努力によって出来上がったのが”強い言葉”なのである。
インターネット掲示板上で生まれた多くの新語の誕生過程には「省略」が含まれているし、新語でなくてもより感情の程度の大きい言葉が選ばれ、使われている。
さらにこの文化がインターネットの世界から日常社会に輸入され、会話の中に”強い言葉”が折り混じって、今の状況になったのだろう。会話の間を嫌う情動が、ここでも影響していると思われる。
この状況を否定しようとはとても思わない。時代の潮流を、棒切れ一本で変えられようはずもないし、特に変えたいわけでもない。悲観というのも少し違う。あくまで自分に落とし込んだ上で、自分はそうでないようにしようと思うだけだ。主語は、なるべく小さくいこう。
確かに便利である。重い国語辞典を頭の中に入れて歩く必要はもはやない。先ほど手札という言葉を使ったが、好みのカードを十数枚ストックしておけばいいのだ。その場その場に応じて、パッと出すだけで事足りるのだから。知識が入り用のときは、自分に代わって手に収まる電子頭脳が答えてくれる。
持てる武器が強くなったから、それに合わせて自分の行動を最適化し効率の良いパターンを編み出す。適応という意味では、人間はとても優れている。
しかし。それでいいのかな、という思いが首をもたげる。
便利を追求しすぎて、戻れなくなりはしまいかと。
たぶん、いまさら交通手段のない生活には戻れないだろうし、上下水道のない生活にも戻れない。新しい道具に浸かるということは、古い道具との決別も意味している。
ブログブームが過ぎた今もこうして誰に読まれるわけでもない文章を書いている。メールも好きだ。長すぎもせず短過ぎもせずの文章を懸命に考えて送信し、返信をしばし待つ、どことなく落ち着かず心のどこかがわずかにヒリヒリしている感覚を愉しむ、しかいこんな機会もほとんどなくなった。あるのは定型文で固めた業務連絡だけ、文章を考えるのも返信を待つのもちっとも愉快じゃない。
ここでいう”強い言葉”というのはもともとある言葉も含まれているから、新しい道具というよりは言葉の新しい使い方、とでもいえようか。しかしこれに浸かるあまり、コミュニケーションを「じっくり」とる感覚を忘れてしまいそうで、それがあまりにも寂しくて、川の流れを見つめるだけの尖った石になっている。
とはいえ世の中広し、”強い言葉”を濫用しつつも場面場面でしっかりした切り替えを見せこなしていく人がたくさんいる。そういう人からしたら、考えすぎダヨと一笑に付すところであろう。いやしかし、世の中広しという以上、切り替えられない人もいるわけで、例えばこれを書いている凡夫がまさにそうであって、ひとたび”強い言葉”に染まったら、すべてが朱に染まって赤くなってしまう。真っ赤に染まることを是としない以上、”強い言葉”に背を向けたくなるのだ。
昔の人は感情を表す言葉を、微妙な差異を埋めずにたくさんこしらえた。これを大きさ・程度で数値化し、順に並べられるとしよう。0から100までの感情は、連続して絶え間なく表されることはなく離散的であるものの、少しの間をおいて櫛の歯のように並び、小さな範囲を少しづつ受け持ちあって、感情をあまねく表す。なめらかに櫛が動いて、美しく生活を彩る。
時代を下るにつれ、その歯がだんだん欠けていく。
表現の豊かさより、櫛の歯の数より、速さを求める。短さを求める。
櫛をせわしなく動かして、引っかかった歯がとれて、消えていく。
少ない歯でも、力を入れれば使えるさと強引に動かすその手付きは決して間違っているわけではなく、でも「淘汰」で片付けるにはあまりに忍びない。
端の歯だけが残って、引っかかりが少ないと喜ぶ裏で、感情は梳かされず塊になって、インターネットの海に放たれ、一瞬の水しぶきのあと沈んでいく。
とはいえ。塊のままにしておきたいときもある。細かく砕くのが手間でメンドウで、エイヤッと投げてしまうときもある。いつまでも気を張っていられるほど強くはないのだ。
だからたまにはこういうところで、櫛を修理し磨くわけなのだ。
多少欠けて汚れていても、自分の櫛と誇れるように。
と、いうわけで。新年早々、長々と草々。
物好きな方は、今後とも櫛磨きにお付き合いくださいませ。