色メガネ売場

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ワカルの季節

春は別れの季節、なんて凡庸な書き出ししか思いつかないが、春をひとつの節目とするニッポンの風習が続くかぎり、春は別れの季節である。名残惜しさを胸に散らして、カスミをかき分け、温めた場所を離れていく。

環境が”代わる”ことはほとんどなくて、新しく”増える”だけなんだけど、そんなに多くを覚えていられないから、”代わる”ように思える。新しい環境に向いた分だけ、昔からの環境にはどうしたって心を届かせづらくなる。単純接触効果なんて言葉があるが、きっと環境にも当てはまる。会った分だけ親しくなる。会わない分だけ疎遠になる。

それでも、幸か不幸か”代わり切る”ことはできない。思い出は顔のない栄養になって、今の自分を形作る。無意識の下で、過去は息づく。増えすぎて溢れそうになったら、芯を残して削られていく。新しく惹かれた環境の中、不意に見えた昔の思い出の影は、当時より美しくなっている。

 

”別れ”という言葉は元には戻らないんだという不可逆性を秘めている気がする。再び会ったところで、もう前とは確実に何かが変質している。18歳のワタシは18歳のアナタと別れ、20歳のワタシが20歳のアナタと会って、”同じ”だった環境の上に”違い”が積まれていて、それに気づく。あるいは会わずとも、ワタシのいる新しい環境にアナタはいない、そんな”違い”を認識するだろう。”別れ”の先に、違いが生まれるべくして生まれるのだ。どことなく悲しい、まだ”同じ”でありたいのに、変わってほしくないのに変わってしまうことを惜しむような、少々後ろ向きの”違い”が。

 

 

これが”分かれ”だったら、どうなんだろう。

なんとなく、あくまで個人的にだが、はるか遠くで再びつながっている可能性が残されているような気がする。クラスに分かれ班に分かれて得た経験は、それぞれに”違い”があるけれど、それは想定され期待された”違い”だ。”分かれ”は、”違い”があることを念頭に置いた上で進む。再び会ったとき、それぞれ”違い”を獲得したという点でワタシとアナタは”同じ”になる。その”違い”はきっと誇らしく、自らが獲得した”違い”でもって、アナタとの”違い”を楽しむ、少々前向きの”違い”。

 

離れたのち絶対に生じる”違い”への姿勢が消極的か積極的か、そんな”別れ”と”分かれ"の”違い”。春は”別れ”と”分かれ”がどちらも入り交じる、ワカレの季節なのだ。

この2つの言葉の"違い"を調べると、”別れ”はヒトに、”分かれ”はモノやコトに使うという。ヒトは”分かれ”ほど単純に”違い”を受け入れることができないからこそ、その後ろ髪を引かれる”別れ”が、人間模様を彩るのだろう。

 

 

ところで”分かれ”(終止形で書くなら”分かれる””分ける”)という言葉の語源は「我離る(わ・かる)」と言われているそうだ。「自分がヒトや場所から離れる」、これは「分かる」、理解するという意味の言葉にもつながっていく。

「分かろう」とするとき、たいていの人間は道理や筋道に物事を照らして、真であるか偽であるかの判断を行おうとする。これは真と偽を道理や筋道によって”分かって(分かちて)”いることにほかならない。逆に言えば、真と偽の差異がはっきりしないとき、それは二重に”「分かってない」”のである。真も偽も、全ては”同じ”な状態である。"違い"を知って、初めて真と偽を”分かち”「分かる」のである。

 

離れるということはどこまでもマイナスなことではない。”同じ”である限り、それは「分かって」ないことなのかもしれない。

新しい環境に身をおくことは、かつての環境で共に過ごした誰かを「分かる」という、より高度なフェーズの始まりでもある。一時的な”別れ”は、長く続く”分かれ”の先で「分かり」になる。

 

 

春うらら。一歩踏み出せば、ワカルの季節が待っている。