色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

人には人のより好み

あの痛ましい事件から1週間以上過ぎた。”調査”が進み、”新情報”が明らかになっているようだが、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。被疑者について何らかを知ったところで、振り上げた拳は幻を裂くのみで、痛みは自分に跳ね返る。

”知る権利”を振りかざすさまを見るにつけ、盾で殴られているような感覚になる。いつ襲われるとも知れないから、メディアに触れないようにしている。正面から受け止められる心の余裕は現状持ち合わせていないし、また受け止める必要もないだろう。

 

ビュッフェのようなものだ。多種多様な料理が並べば、好みに合わない料理も並ぶだろう。皿に取り分けるかどうかは、皿を持つ者が決めることだ。口に合わぬのではどうしようもない。それがどんなに栄養にまみれていようと、合わぬものは合わない。好き嫌いの道理は、得てして他の理解を得られない直情的なものになる。

だから、シェフが種々の料理を"並べる権利"は、きっとあっていい。そして同様に、客が料理を”選ぶ権利”も、またあっていい。不味いと思ったものを不味いと言っても、礼を失することにはならないだろう。そこでシェフの悲しみに心を動かすのは、良し悪しもない以前に、まったく別の問題だ。

 

全てを受け入れる必要はない。だいいち、”全て”を知る人間など存在しない。自分のことすらモヤの中にあるようでつかみとれない現代の人間が、自分以外の人間の思考を理解しようとしても人智をはるかに超えている。だからこそ宗教が誕生するのだが、これ以上深くは言及しない。

心臓の拍動を自分で操れない時点で、カンペキな人間など存在しないのだ。

 

メディアには”並べる権利”がある。”並べる”までの過程で、彼らがどんなにこちらの常識から外れたところでなにを振り回そうとも、彼らが”並べる”のを止めることはできない。過程は大いに批評されるべきであり、また変わりゆくべきものだが、結実がどんな形であったとしても、それを”並べる"瞬間、この一瞬だけには他の一切が介在できない。

ざっくり言えば、報道の自由、というチンケなコトバで表せられようか。

 

で、それを見る側にも”選ぶ権利”がある。メディアと一口にいっても――たいていのものごとはそうだが――一枚岩ではない。その中でなにを選ぶかは、こちらの自由だ。何人にも、その選択をけなすことはできない。

留意すべきは、自分の好きが他人の好きではない可能性を捨てないことだ。逆もしかりで、他人の嫌いが自分の好きとも限らない。珍味が愛されるように、また定番が拒まれるように、人は違う道理を抱えて生きている。道理を”理解する”などと大層なことを考えず、まずは道理が”ある”ことを理解するところから、選択の自由、は自由を獲得する。

 

イヤだったら見なければいい。それは君でない誰かのために”並べられた”ものなのだから。選ばないことも、また”選ぶ”ことなのだ。

しばらく、野球以外の番組を見ることはないだろう。