習慣とはかくも脆いものなりき
恐怖、である。
前回のエントリの日付を見て愕然とした。
5月とは?いつぞや?何年前じゃ?
遠い昔の自分が、何か文章を残していたという事実だけでおぼろげに老いを感じる。
談合坂PAで買った信玄餅生プリンばりに口どけなめらかな人生もきっと悪くないはずだと励ましつつ、とはいえこの空き地にも何か建設的なものを、と思い立つ夜である。
今年1月、手帳を買った。3年連続である。
予定で埋めたかったカレンダーに空白が目立つのは、むしろ書き込みがほとんど認められないのは、予定が無いわけではなく、ひとえに手帳に記す習慣を獲得し忘れたからなのである。みたび、買って勝手に一本満足を繰り返しているからなのである。
自分が予定に溢れた手帳を持っている未来予想図Ⅱなど、描けるわけもなく。
念のためとはいえ強調しておくと、予定が無いわけではない。
これはリア充であらねばならぬという世間を支配する謎の強迫観念とは、また別の話。
いっそ、「○月○日、手帳に予定を書く」なる予定を手帳に書き加えておこうか。いや、その日までに手帳を開かないのでムダである。手帳を開かないことが予定されているのである。
ならば、「○月○日、手帳を開かない」なる予定を手帳に記しておこうか。まかり間違ってその日に手帳を開いたら、有言不実行を悟り過去の自分をコツンと小突いてやる。未来のそうした小さな楽しみなんて、今からいくらでも作れる。
習慣。幸か不幸かそういったものを持ち合わせていない自分だが、いいのである。獲得はできないのだ。そういう性なのだ。人生には割り切りが必要なのだ。
が。最小限の習慣は身を助く。そこで手帳にこう記す。
「8月4日、前日の夜になって、明日の用事を思い出しアタフタと舞い踊る生活だけはやめにする」
とはいえ実現可能性がみじんも認められないので、これを予定と呼ぶことはできないが。
結局、習慣なんて身につかない。これは予定である。
予定を立てる予定、習慣のある人生。
少し憧れる。
でも、これから待ってるのはダンスダンスレボリューションを毎度毎度初見でやるような人生なんだろう。
仕方ない、踊るか‥‥。