色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

いよいよ!(表) ~映画ドラえもん2018、その公開に寄せて

 

さて。

来たる3月3日。

桃の節句が運ぶ梅の香が、「映画ドラえもん のび太の宝島」の封切りを教えてくれる。

 

正直に言うと、こんな記事を書いているヒマなんぞ一秒もない。けれど、年に一度のお祭りの前とあっては、あの青きタヌキを優先席に座らせざるをえない。

 

以前、主題歌など少しばかり情報が解禁された時期に、紹介記事を書いた。

sakushusen.hatenablog.com

 

よくこんなに少ない情報でこんなにテンションの高い記事を書いたものだ。

あれからゲスト声優が発表されたり、そして主題歌が解禁されたりと、さらに映画公開に向けた動きがあったわけだが、と今サラッと書いたわけだが、この"主題歌"というやつがかなり話題を呼んだことは記憶に新しい。

PVにも大々的に採用されているし、歌番組でもなんども披露されたから、このインパクトにおののいた人は数知れずであろう。

 

前の記事に書いたとおり、星野源は素晴らしい曲を持ってきてくれた。

なんせ「ドラえもん」である。タイトルが。とても紹介しづらい。

サビのリズムが頭から離れない人を多数観測したし、星野氏がこの曲「ドラえもん」、ひいては「ドラえもん」世界への熱意を感じるエピソードも聞いた。‥‥ああ紹介しづらい!!

 

ドラえもん」の世界観を彼のことばでつむぎ、彼の敷いた音に乗せて歌う。星野氏の感性が、またひとつステキな作品を生み出した。

これを機に、いろんな年代層の方が映画ドラえもんに触れてくれるのかと思うと、星野源のカリスマ性にただただひれ伏すばかりである。

 

肝心の中身といえば、川村元気がつづる"王道"の物語と、今井一暁キャプテンが舵を握って荒波の上を走る"骨太"の映像。演技に関しては、今作に関してはもはや気にすることすら失礼というものだろう。心配は無用だ。

しかし強いて言えば、"日常の延長線上の非日常"という"映画ドラえもん"の空気を、脚本がつかむことができているか。”ゲストスタッフ”ともいうべき布陣が目立つ今作では、そこが少し気になるところではある。

その一抹の不安すらも楽しみという感情でくくって、とりあえず無心で映画館へ向かうことにしよう。

 

「映画ドラえもん のび太の宝島」、ぜひ見ていただきたい。

公開初日の昼、大量の子どもとポップコーンとがひしめく空間でみるのがためらわれるならば、夜遅い時間を選んでもかまわない。星野源の音楽に、極上の音響空間で聞き惚れるために来てくれてもかまわない。

 

とにかく、いちど浸ってみませんか。

オトナにも、"ドラえもん"は優しいですよ。

【小説】重なる糸

糸が、切れそうだ。

上を見ながらぼんやり思った。

ぷらぷらと落ち着きがなく、ひょろひょろと力強さもない。

自分で選んだはずなのに、どうしてこんなに不安がつきまとうのだろう。

ただ、心安らかにいきたい。それだけが願いなのに。

 

最初に思い描いていたのは、もっと太かった。

太いのがいいに決まっているのだ。望みを叶えるためには。

階段を登っていった先に、希望があると思っていた。

あの道に立ったとき、太い方を選択することだってできたはずだ。

 

でも、未練があった。まだ、信じてみたいという未練が。

それが、結果的には糸を細くすることにつながった。

 

後悔と未練を練りあわせた感情の形をしたなにかが、ずっと頭の中を支配していた。

なにをするにも、常につきまとう心細さ。

もう、忘れることすら許されない。

許してほしいわけでもないけれど。

 

ひとりになった。そしていろいろ考えた。

ほんとうに、細いままでいいのかと。

今ならまだ、なかったことにしておくこともできる。私と、笑顔をくれたあのヒトだけの秘密。

返しにいけばいい。あの紙切れといっしょに。

そうして、ドアを開けて進み出せばいい。知っている道を、知らない新しい道と思って。

もう糸の細い太いなんて気にしなくても、生きていけるだろう。

 

と、こんな割り切りができるほど強くはない。薄々感じていた。

せめて、覚悟を決める強さだけでもあったら。

きっぱり、別れを告げることができたら。

あとは手を伸ばすだけなのに。それだけのことが、どうしてもできない。

 

薄暗い部屋に、あのとき書いた手紙が落ちている。

誰に渡すわけでもなく、誰に宛てるわけでもなく。

そっと拾い上げて、読み返す。

「今までありがとう」

ずいぶん殊勝な自分がいた。

この手紙を最初に読むのは、誰になるのだろう。

読まれなくていいから想いだけ伝わってほしいだなんて、身勝手なことを考えた。

 

この部屋には長らく他人を呼んでいない。

捨てられないものがありすぎて、生活もままならない。

「生活」ということばすら、その満ちあふれるエネルギーの前に不釣り合いだ。

次にここに他人が来るとき。

それはきっと、しみついたニオイがあふれ出してとまらなくなるとき。

 

どれくらいの時間が経っただろう。

一晩にも、一週間にも、永遠にも思える長い長い時間のあとに、水の中で光も音もなにもかも見えなくなって、"今"を見失った頃に、ゆっくり立ち上がった。

もう、進むしかない。

即席の階段を、一段ずつ上がっていく。でも、すぐに途切れた。

そうか。ひとつ、ため息をついた。

ここで踊るしかないのだ。水中から飛び出した魚が、さいごの力で暴れるように。

暴れるということばが似合わないノロリとした動きで、腕を上に伸ばした。

魚に腕はないから、もしかしたらそう思っただけなのかもしれない。

 

迷惑だな。

まとわりつく感覚に顔をしかめつつ、考えたのはそんなことだった。

こうしてひとり、片付け整理しているようでも、必ず他の誰かになにかしらの感情と仕事とを負わせる。

こんなにちっぽけなのに、孤独は手のひらをすり抜けていく。

どうあがいても迷惑なんて、やめてくれよ。決意がにぶる。

 

糸が、切れそうだ。

もう上にはなにもない。

目をつぶった。みしみしと悲鳴が聞こえる。

あとは、希望の形をした絶望をこの足でチョンと蹴り飛ばすだけ。

どうなるかな。こんなことまでして、骨が折れるな。それで済むのかな。

 

 

 

 

 

2本の命の糸が、揺れている。

私のしおれた命の糸と、梁から垂れた命の糸。

 

どちらの糸が細いのか。

どちらの糸が切れて、どちらの糸が残るのか。

 

 

 

そしてもし、2本の糸が重なっていたら。

2本同時に、切れたとしたら。

 

 

そのときは、命の糸を買いに行こう。もう一度。今度はもっと、太いやつを。

ドラえもん 1月19日放送分感想 「なんでもバイキング」

最近見てなかった、というかリニューアル後全然見てなかった。

かいつまんで。

 

ミニコーナー「ミニドラどーこだ!」

写真の中に隠れたミニドラを探すミニコーナー。

この写真は‥‥宝島上陸時の船内なのかしら。のび太の色合いがやや淡い。

そしてミニドラ小さすぎませんか!数秒間で全部探すの、けっこう大変。

 

OP

・今年の映画の主題歌でOP曲がなんたらという話になっているけれど、やはり「夢をかなえてドラえもん」がしっくり来る。このままがいいなあ。

 

www.oricon.co.jp

↑この記事とか完全に「夢をかなえてドラえもん」を無視してくれてるんだよねえ‥‥。

 

・簡潔なキャラクター紹介。動くなあ、ドラえもん

ドラえもんにとっての宝島はどら焼き島なんじゃないか?

・大人しずかちゃんがかわいい。のび太のヒゲはなんだありゃ。全体的にしずかちゃんの目がウルウルしてる。

・絵柄含めどことなく「宇宙英雄記」の感じだなと思ったら絵コンテ演出はやはりの大杉宜弘氏。リニューアル後チーフディレクターとしてTVシリーズの重役に!!愛らしい動きの数々、これからも期待しています。

 

「なんでもバイキング」

脚本:福島直浩

絵コンテ・演出:氏家友和

・タイトルの出し方が大山ドラっぽくなったような‥‥その時代の作品をあまり見ていないのでなんともいえないが。音楽含め。

・リニューアルして絵のタッチが変わっても飯がウマそうなのは変わらない。

スネ夫の3人ネタ、久々な気がする。

のび太の涙で天丼。

・ヘンな道具つけてムジャキにはしゃいでるドラえもんがかわいい。

・どら焼きコミックス「トラえもん」藤大・E・不三夫作‥‥って、雑じゃないですかね!背表紙上のドラえ‥‥じゃなかったトラえもんの表情が変わってるのはいい小ネタ。

・なんだ「最寄り駅」行のバスって。しかもそこそこヒト乗ってるし。

・子どもに指をさされてコソコソ言われるあたり、甘ブリ1話を思い出した。

・「のび太くん0点」のインストに乗せて遊ぶの、なんかシュール。

・並のひみつ道具じゃ恥ずかしがらないしずかちゃんが照れまくってるので相当見た目として恥ずかしいんだろうな。

・「ナンでもカンでもヤリ放題」この死ぬほどムリヤリな感じがTVオリジナル作品という印象ですね。

伝わるものも伝わらない素直さの欠如

管楽器の話をする。

キレイな音を出すためには、正確なアタックと、均一な量と圧と温度とを備えた息が必要だ。慌てて息を入れるのも良くなくて、余計な力を入れず自然に呼吸をするように、"想い"を管に吹き込んでやるのだ。そうして、音はまっすぐに飛んでいく。

アタックに引っかかりがあったり、息にムラがあったりすると、当然音はキレイに飛ばない。多少ひしゃげていて、それでも"想い"を吹き込んでいることに変わりはないのだけれど。

練習をひたすら積んでいくことで、後者の音を前者の音に近づけようとするのが、まず大半の奏者が目指し努めることである。その過程には、技術の会得がある。幾度となく響かない濁った音を鳴らして鳴らして、いずれふとしたときに体に染み込む楽器に対する"素直"さが、キレイな音を生むんじゃないかなと、ある面でそう思う。

 

素直になればなあと思うことが、ここ最近多い。

誰かに話すとか、なにか伝えるとか、なにをしたいとか、なににつけてもヘンなチカラがジャマをして、自分の素直さを押しのけている。

日々をどの場面に区切っても、その時点でやりたいことというのは必ずある。これが、きっと"素直"というやつだ。一方、"素直"が実現するまでの障壁を示す"チカラ"もまたはたらいていて、そのせめぎあいの中で行動が決定されている。

”チカラ”とはなにかというと、例えば行動対象となる人物の思考を先読みしたり、あるいは周辺環境と自分との調和に尽力したり‥‥というと聞こえはいいが、早い話が"他人が望む自分の姿"をもたらそうとする言動のことである。

社会性を獲得するのであれば多少は持っておいてもよいチカラだが、いくつか脆弱性が見つかっており、その最たる例は「自分調べ」であるということである。いくら考えても他人の考えなど正確に理解できるはずもないのに、自分で形作った"自分"を他人に押し付けようとしてしまう傾向が認められる。結果、あのときの遠慮はまったくの無意味だったなどとあとになって悟ることになる。

 

余計なことを考えず素直に息を入れれば、キレイな想いのまま伝わる。

チカラがそれにジャマをして、せっかくのまっすぐな想いがゆがんでひしゃげてつぶれて聞こえる。

どちらが良いかと聞かれたら、やはり前者ということになるのだろう。

こうして考えてみると、チカラの妨害をくぐり抜け、適度に素直を露呈するのもまた技術のひとつ。そして、もっぱら後者の音を吹き続けて伝わらないなと首をひねっている私のような人間を、不器用と形容するのだろう。

 

不器用なりに伝わる想いもあるだろうさ。ゆがんでひしゃげてつぶれた想いが。

そのとなりにまっすぐな想いがあれば、そちらに耳を傾けたくなるのが"素直"というもの。

 

私の楽器は、いつまでたってもどこか濁った音を鳴らし続けている。

もしかしなくても年明けた

手帳が買いたくなると年末年始という感じがする。

3年連続で使わなかった上に3年連続で年半ばにして紛失したのでもう買わない。

 

2018年がやってきた。無限の時間を人間が捉えやすくするためザクザク切り分けただけなのに、どうしてこうも年が終わるとか始まるとかいう感覚があるのだろうね。

染み込んだ感覚と、世間からの圧倒的な同調圧力でもって、私は強引に"年を越している"のである。自分の周りがみんな今日は2018年1月1日!と言うからそうなのね、と納得しているフシがあるような。

 

世俗を離れれば、年を明かすこともないのだろう。ただ、それでは少しばかり暮らしが単調にもなりそうだ。多少強引でもどこかに区切りがないと、リセットの機会を失いそうなもの。リセットせずとも、機会があるほうがいいだろう。

 

考えてみれば区切りというのはすべからく強引なものだ。

かならずどこかで恣意的な線引きをしないと、区切りは生まれない。線を引くにはエネルギーが必要だ。"強”く”引”かねば、区切りはどんどんうすれていってしまう。

 

年の移り変わりというのは、社会に最大のパワーでもってグリグリと引かれた線を意識することにほかならない。自分で線が引けないからこそ、社会が引いた線を有効活用するべきなのだろう。

 

心機一転、一念発起。

掲げては消え行く目標を、性懲りもなく今年も掲げておこう。

掲載料はタダだものね。風で吹き飛んでも拾う必要はないし。

 

一線を画すために、その線を描くために、まずは少々の覚悟をもって年をまたぐ。

本年も、どうぞよろしくお願いします。