色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

ドラえもん 1月19日放送分感想 「なんでもバイキング」

最近見てなかった、というかリニューアル後全然見てなかった。

かいつまんで。

 

ミニコーナー「ミニドラどーこだ!」

写真の中に隠れたミニドラを探すミニコーナー。

この写真は‥‥宝島上陸時の船内なのかしら。のび太の色合いがやや淡い。

そしてミニドラ小さすぎませんか!数秒間で全部探すの、けっこう大変。

 

OP

・今年の映画の主題歌でOP曲がなんたらという話になっているけれど、やはり「夢をかなえてドラえもん」がしっくり来る。このままがいいなあ。

 

www.oricon.co.jp

↑この記事とか完全に「夢をかなえてドラえもん」を無視してくれてるんだよねえ‥‥。

 

・簡潔なキャラクター紹介。動くなあ、ドラえもん

ドラえもんにとっての宝島はどら焼き島なんじゃないか?

・大人しずかちゃんがかわいい。のび太のヒゲはなんだありゃ。全体的にしずかちゃんの目がウルウルしてる。

・絵柄含めどことなく「宇宙英雄記」の感じだなと思ったら絵コンテ演出はやはりの大杉宜弘氏。リニューアル後チーフディレクターとしてTVシリーズの重役に!!愛らしい動きの数々、これからも期待しています。

 

「なんでもバイキング」

脚本:福島直浩

絵コンテ・演出:氏家友和

・タイトルの出し方が大山ドラっぽくなったような‥‥その時代の作品をあまり見ていないのでなんともいえないが。音楽含め。

・リニューアルして絵のタッチが変わっても飯がウマそうなのは変わらない。

スネ夫の3人ネタ、久々な気がする。

のび太の涙で天丼。

・ヘンな道具つけてムジャキにはしゃいでるドラえもんがかわいい。

・どら焼きコミックス「トラえもん」藤大・E・不三夫作‥‥って、雑じゃないですかね!背表紙上のドラえ‥‥じゃなかったトラえもんの表情が変わってるのはいい小ネタ。

・なんだ「最寄り駅」行のバスって。しかもそこそこヒト乗ってるし。

・子どもに指をさされてコソコソ言われるあたり、甘ブリ1話を思い出した。

・「のび太くん0点」のインストに乗せて遊ぶの、なんかシュール。

・並のひみつ道具じゃ恥ずかしがらないしずかちゃんが照れまくってるので相当見た目として恥ずかしいんだろうな。

・「ナンでもカンでもヤリ放題」この死ぬほどムリヤリな感じがTVオリジナル作品という印象ですね。

伝わるものも伝わらない素直さの欠如

管楽器の話をする。

キレイな音を出すためには、正確なアタックと、均一な量と圧と温度とを備えた息が必要だ。慌てて息を入れるのも良くなくて、余計な力を入れず自然に呼吸をするように、"想い"を管に吹き込んでやるのだ。そうして、音はまっすぐに飛んでいく。

アタックに引っかかりがあったり、息にムラがあったりすると、当然音はキレイに飛ばない。多少ひしゃげていて、それでも"想い"を吹き込んでいることに変わりはないのだけれど。

練習をひたすら積んでいくことで、後者の音を前者の音に近づけようとするのが、まず大半の奏者が目指し努めることである。その過程には、技術の会得がある。幾度となく響かない濁った音を鳴らして鳴らして、いずれふとしたときに体に染み込む楽器に対する"素直"さが、キレイな音を生むんじゃないかなと、ある面でそう思う。

 

素直になればなあと思うことが、ここ最近多い。

誰かに話すとか、なにか伝えるとか、なにをしたいとか、なににつけてもヘンなチカラがジャマをして、自分の素直さを押しのけている。

日々をどの場面に区切っても、その時点でやりたいことというのは必ずある。これが、きっと"素直"というやつだ。一方、"素直"が実現するまでの障壁を示す"チカラ"もまたはたらいていて、そのせめぎあいの中で行動が決定されている。

”チカラ”とはなにかというと、例えば行動対象となる人物の思考を先読みしたり、あるいは周辺環境と自分との調和に尽力したり‥‥というと聞こえはいいが、早い話が"他人が望む自分の姿"をもたらそうとする言動のことである。

社会性を獲得するのであれば多少は持っておいてもよいチカラだが、いくつか脆弱性が見つかっており、その最たる例は「自分調べ」であるということである。いくら考えても他人の考えなど正確に理解できるはずもないのに、自分で形作った"自分"を他人に押し付けようとしてしまう傾向が認められる。結果、あのときの遠慮はまったくの無意味だったなどとあとになって悟ることになる。

 

余計なことを考えず素直に息を入れれば、キレイな想いのまま伝わる。

チカラがそれにジャマをして、せっかくのまっすぐな想いがゆがんでひしゃげてつぶれて聞こえる。

どちらが良いかと聞かれたら、やはり前者ということになるのだろう。

こうして考えてみると、チカラの妨害をくぐり抜け、適度に素直を露呈するのもまた技術のひとつ。そして、もっぱら後者の音を吹き続けて伝わらないなと首をひねっている私のような人間を、不器用と形容するのだろう。

 

不器用なりに伝わる想いもあるだろうさ。ゆがんでひしゃげてつぶれた想いが。

そのとなりにまっすぐな想いがあれば、そちらに耳を傾けたくなるのが"素直"というもの。

 

私の楽器は、いつまでたってもどこか濁った音を鳴らし続けている。

もしかしなくても年明けた

手帳が買いたくなると年末年始という感じがする。

3年連続で使わなかった上に3年連続で年半ばにして紛失したのでもう買わない。

 

2018年がやってきた。無限の時間を人間が捉えやすくするためザクザク切り分けただけなのに、どうしてこうも年が終わるとか始まるとかいう感覚があるのだろうね。

染み込んだ感覚と、世間からの圧倒的な同調圧力でもって、私は強引に"年を越している"のである。自分の周りがみんな今日は2018年1月1日!と言うからそうなのね、と納得しているフシがあるような。

 

世俗を離れれば、年を明かすこともないのだろう。ただ、それでは少しばかり暮らしが単調にもなりそうだ。多少強引でもどこかに区切りがないと、リセットの機会を失いそうなもの。リセットせずとも、機会があるほうがいいだろう。

 

考えてみれば区切りというのはすべからく強引なものだ。

かならずどこかで恣意的な線引きをしないと、区切りは生まれない。線を引くにはエネルギーが必要だ。"強”く”引”かねば、区切りはどんどんうすれていってしまう。

 

年の移り変わりというのは、社会に最大のパワーでもってグリグリと引かれた線を意識することにほかならない。自分で線が引けないからこそ、社会が引いた線を有効活用するべきなのだろう。

 

心機一転、一念発起。

掲げては消え行く目標を、性懲りもなく今年も掲げておこう。

掲載料はタダだものね。風で吹き飛んでも拾う必要はないし。

 

一線を画すために、その線を描くために、まずは少々の覚悟をもって年をまたぐ。

本年も、どうぞよろしくお願いします。

京アニのお祭りに参加してきた

(2019年7月18日追記)

sakushusen.hatenablog.com

(追記ここまで)

 

10月28日、みやこめっせで開催された京都アニメーションのファン感謝イベントに行ってきた。

 

少し前の話にはなるが、振り返ってみる。

 

 なぜ京都アニメーションを追っているのか

アニメーションには興味のなかった私だが、「響け!ユーフォニアム」という作品をきっかけに京都アニメーションとの出会いを果たし、ファン感謝イベントに足を運ぶまでになった。なにが私の心を掴んだのか、少しばかり考察するところから始めよう。

 

京都アニメーションは制作工程のほとんどを自社のスタッフで行う。これはわりと特殊な事例で、ほとんどのアニメーション制作会社は外部スタッフを招聘することが多い(わかりやすいところでいえば監督を"呼んでくる"、という形)。監督、演出、そして絵に落として作品として完成させるといった作業を内部スタッフだけで完結させることで、作業の効率化やイメージの統一がなされている(と言われている)。この作業体制で制作された作品は非常に美麗でよく動き*1、高い水準を維持し続けており"京アニクオリティ"とも呼ばれ固定ファンが多いことでも知られる。

私は、このまとまりのある作業体制によってかよらぬかは定かではないが、絵コンテや演出を手がけるクリエイターの並外れた技量や才覚、隠された意図を作品の中から感じとることができるので、お話自体はもちろん"誰がなにを考えて作っているのか?"を考えながら見るのが好きだ。スタッフロールも、こんなに素晴らしいものを作った人は誰なんだと気になってしまう性質上、凝視しては特に良いと思った回のスタッフの名前を覚えることもある。

 

では、なにが良いんだろうか。他のアニメーションに詳しくないので比較はできないが、この会社はあらゆる意味で"細かい"描写が得意である。

 

スタッフが皆高い画力を有しているため、そこここで当たり前のように細かい動きがみられる。さらに、表情の機微を描き分けてしまう。笑顔の中に一瞬見せる哀しみや、微妙な表情の移りかわりすらも絵として出力することができる。その上、登場人物の台詞による説明が一切ないことすらある。絵だけで視聴者に伝わることを前提とした画面作りからは、自社の画力に対する絶対の自信がみてとれる。

こだわるところにとことん徹底する姿勢は、小物などの設定にもみられる。例えば「響け!ユーフォニアム」という作品では大量の楽器が登場するが、それら一つ一つに対して膨大ともいえる資料が存在する。

http://giga-images-makeshop-jp.akamaized.net/kyoanibtc/shopimages/6_000000000873.jpg?1462165184

設定資料集のサンプルであるが、ひとつひとつ細かく描かれていることが分かる。

さらに恐ろしいのは、本編中においてもこれらの楽器が一本一本ほとんど手描きであるというところ。最近はCGの使用もよくみられる中で、手描きを選択するのもかなりのこだわりといえよう。

もう一つ例を挙げるなら、水泳を取り扱った「Free!」という作品の水しぶきもすべて手描きである。すごい。

 

絵コンテについても同様である。配置、構図、明暗などを巧みに操り、ひとつの画面の中に情景や感情を詰め込んでいる。考察記事を読むと、ここまで考えてこの絵を構成したのか、と嘆息することもしばしばである。

 

アニメーションは総合芸術だ。そもそも私は絵を描くことが不得手なので、静止画一枚、原画一枚でも感服のひとことであるところを、それが動き、感情を持ち、生き生きと世界に存在している様子を見ると、並大抵の感想で片付けられる感動ではない。背景や音楽、吹き込まれる命とも形容される声と一体化して雄弁に物語られるストーリーは、よく考えなくてもおびただしい積み重ねの成果であることを認識させられる。

 

よく言われることだが、"撮れてしまう"実写映画やドラマに対してアニメーションは"撮らなくてはいけない"。実写では、ロケに行けばその場所の風景や音や光の差し込みなどがあらかじめ"有"り、その上に俳優の演技、時にはアドリブなどあらゆる要素が偶発的なものも合わせてカメラの中に収まるが、アニメーションにおいて始まりは"無"である。音もなければ光もない。そしてなにより、偶然がない。無の上に世界を細部に至るまで構築し、キャラクターを動かすという点では実写よりも難しいと思う。ここにおいて、細部へのさまざまなこだわりを持って作られ、実写とひけをとらない密度の濃い世界を画面の中に構築できる京都アニメーションが制作する作品を、私は好きになったのである。

 

繰り返すが、他のアニメーションについて私の知識はあまりにも乏しい。上にあげたこれらのトクチョウは他との比較からみえる"特徴"ではなく、あくまで私が感じた"特長"であるということをご理解の上読んでいただければと思う。

 

いざ、みやこめっせ

旅程の都合上、1日目のみの参加となった。下見はバッチリで道に迷うこともない、なぜなら先週向かいの建物で定期演奏会を鑑賞したからだ。2週連続で東京と京都を往復するのは、はたから見れば頭が悪い行為であることに違いはないだろう。

 

受付のあと、バッジを渡された。本イベントのメインポスター(?)でも使われているキャラ大集合の絵だ。これを目印にイベント参加者を見極めるらしい。おとなしく服につける。

このような大規模イベントに参加することはめったにないが、それでもまず物販!という人間の本能で到着した物販エリアには販売前から既に長蛇の列が。そこかしこにTシャツや缶バッジなどのアイテムを身に着けている人がたくさんいて、ここにいる人達みんな同じものを愛しているのかと思うと安心と不安と恐れ(畏れ)とが入り交じった。

販売開始後、どんどん捌けていくタペストリー。30分ほどでヴァイオレット・エヴァーガーデンタペストリーが完売アナウンスが入り、どよめきが物販エリア中に広がった。マジやばくね?

 

遠征に手一杯でグッズにお金をあまり割けなかったが、パンフレットと楽器くんTシャツを購入。ユーフォ2期7話の駅ビルコンサートで部員が着ていたデザインを模した緑色のTシャツも欲しいなあ‥‥

クリアファイルがガチャ仕様で、お目当てのキャラクターを求めて交換相手を探す人もいた。あの中にコンプを目指す伝説の少女Aはいただろうか。

 

続いて、地下の展示コーナー。作品ヒストリーゾーンには登場人物や舞台設定、はては小物に関する京アニクイズがあったり、アフレコ台本とともに各作品の要職スタッフさんのコメントがあったり。「ユーフォ」コーナーにはアノ曲の譜面も飾られていた。あと、キャラクターの身長比較が面白かった。凸守はチビじゃないデース!

 

スタンディングゾーンにはキャラクターのパネルがズラリ。オンエア当時の垂れ幕も各種揃っており、いろいろな作品を作ってきているんだなあという感慨が。お隣の"今!!"ゾーンには作業中の机を再現したものが作品別にいくつか並んでいて、

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中二病でも恋がしたい!」とか、

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響け!ユーフォニアム」とか。公開中の劇場版最新作の新規カットの絵コンテなんかも置いてあった(中は見られないけれど)。

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原画一枚一枚が芸術ですね。

 

レイアウトパネルゾーンは作中で登場した背景が巨大パネル化し、その前で写真が撮れるというもの。ひとりで踏み込むのは気が重い、とあたりを見回すと、

 

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まっがーれ↓(ピンぼけが過ぎる)
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バルサミコ酢ー!

というように京アニが過去に手がけた作品のポスターが全て貼ってあった。AIRからCLANNADからハルヒかららき☆すたからけいおんから、最新作までズラリと。それはもう、壮観だった。

 

次に足を運んだのはOP/EDゾーン。ここにはOP/EDの絵コンテと原画が掲示されている。じっくり見たい人が多く、見学まで少し並んだ。

ユーフォ1期のOP、2期のEDをはじめ、メイドラゴンのあの"狂った"OPのコンテなど存分に見た。たまこまーけっとのOPのコンテが見られたのも嬉しかったなあ。細かいところまで見たかったが、時間と後ろの列の圧力に負けた。納得行かねぇ!

 

スタジオゾーンへ。ここではアニメーション制作の過程が見られる。目の前に広がるのは、来年1月放送の最新作「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の制作風景(のほんの一部)。原画、動画、仕上げ、背景、撮影と一連の工程を、それぞれ担当のスタッフがモクモクと作業しているところをジロジロと見ることができた。撮影の工程でAfter effectsを使っていて、映像をかじっているのでよく眺めてみたけれど、私の知らないAEだった。

 

ここらで3階に上がる。このフロアのメインは原画を始めとする制作資料の展示、なんと3000点以上。キャラクターデザインや設定資料、背景、そして原画、さらに各作品の冒頭10分程度にあたる絵コンテがズラッと並べてあった。ユーフォの変態楽器作画、中二病の戦闘作画、メイドラゴンのしっぽ肉作画(?)、こんなものではほんの一部も紹介できたことにならないくらい、とんでもない量の展示だった。しかし、ここに展示されているのはほんの一部なのだろう。あのクオリティの高い作品のために、クオリティの高い原画がこんなに必要なんだなと、普段流し見てしまうこともあるアニメーションの裏側の膨大な作業量を想った。

絵コンテも興味深く見た。ここからあの世界たちが羽ばたく、その地面を描くことのできるクリエイターさんたちはすごい。

 

その横には、京アニならびにアニメーションDoのスタッフがひとりひとり作製したメッセージカードがズラリ。幸せな気持ちになった。絵を描くというのは素晴らしい芸だなと実感した。武本康弘氏のカードが可愛くて好きだった。

 

時間がちょうど合ったので、新作オリジナルアニメ「バジャのスタジオ」も見た。はじめ、京都アニメーション本社を彷彿とさせる建物にかかっていた垂れ幕をみて「お?凸守のセルフパロディか?」と思ったらそんなことはなかった。しかし動きのひとつからバジャのモフモフ感というか柔らかさが伝わってくる。小林さん役の田村睦心さんが悪役で、あの低い声に魅了された。また見直せば新たな発見があるのだろう。

 

そして最後に向かったのがトークステージ。応募して唯一当たったユーフォのトークイベントである。生まれて初めての声優イベント、ともいえるか。

まず生・白石稔だー!となる。らっきー☆ちゃんねるでいじめられていた白石みのる(CV.白石稔)とどうしても頭の中で比較してしまう。京アニイベントの司会といえば白石さん、なのかな?

そしてメインキャラクター4人を演じる声優さんの登場。ニコ生やラジオで見せていたやり取りそのままに、明るく楽しくステージを彩っていた。関西弁かぶせとか、もはや懐かしい。

さらにシリーズ総監督の石原立也さん、シリーズ演出山田尚子さん、そして劇場版第2作の監督小川太一さんの登壇。出てきたわりにお話しする時間が少なくて残念だったが。こうして作品を作り見せてくれるトップクリエイターの姿をこの目で見ると、なにか頑張らなくてはなと思わされる。具体的なものは何もないが。

一番印象的だったのは、山田さんがふとした拍子に"山田パー"のポーズを取っていたこと。自然なタイミングだったので、あの特徴的な動きはご自身が驚いたときの動きを反映させたものなのだろうか、と邪推を重ねた。

リズと青い鳥」はこの時点だと絵コンテをひねり出してる、とのことだった(記憶はアイマイ)が、ここ最近特報とともに情報が解禁され始めた。楽しみが過ぎる。

 

ステージが終われば、私のイベントも終了となる。座席に上着を忘れ、ひとり順路を逆走する恥ずかしい姿を晒して立つとき跡を濁したが、全体を通して大満足のイベントだった。願わくば、あの資料たちをもう一度、できればじっくり見たいものだ。

 

さらなる作品の発展を願って、今はひとまず新作アニメーション「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のオンエアを楽しみにすることとしよう。

 

以上、「私の時間を無駄にしないでいただきたい」と言われても仕方のない、つたないレポートでした。

*1:アニメーションとは思えないほどスムーズにキャラクターの動作が描かれている、というような意味。ぬるぬる動く、という褒め言葉がある

三角印の予定表

前に、予定を立てるのが苦手だと書いた。 

sakushusen.hatenablog.com

 

今回は、予定を管理するのも苦手というお話。

 

人付き合いの中で、イベントの日程調査に参加することも多い。○×△で答えるアレだ。大学入学後、その機会はさらに増えた。

 

ここでひとつ悪癖があって、というのは予定があろうがなかろうが△をつけてしまうのである。

予定がないなら○をつければいいのにつけられないのは、予定の重要度や参加希望度を考慮してしまうから。例えばその日一日空いていたとして、その予定で4時間を費やすより、他のさらに充実した予定が入る可能性を考えてしまうのだ。

要は、自分がより楽しい予定を組みたい。そのためには、予定を"上書き"することもいとわない。ただ、それでは断る予定先の相手に申し訳ないから、その免罪符として△を刻んでいるわけだ。"行けないかもしれない"とあらかじめ匂わせることで。

 

○という記号が持つキズのないカンペキさは、時に重い。

完全な肯定は私の苦手とするところであり、それはつまり予定がなくても△を選んでしまう心理と密接に結びついている。

「"あてはまる"と"ややあてはまる"という選択肢があったら、"ややあてはまる"を選びがちですか?"あてはまる"か"ややあてはまる"でお答えください」という質問があったら、ムジュンを蹴散らし"あてはまる"を連打しているだろう。

立場を示しつつも決断を避ける責任逃れの一手ではないか、と言われるともうマルッッッ!である。

 

逆に予定があるのに△を入れてしまうのはなぜだろう。先に検討した場合と、根本は同じだ。前提として、"先約"それ自体に△がついていることが多い。要するに、意図的かつ積極的にダブルブッキングの状況が生まれる可能性を作り出そうとしている。その上で、どちらが自分にとってより有益かつ楽しいものであるか比較検討しようと目論んでいるわけだ。

参加可能性の程度を示す前に比較検討は終わらせておけよ、と思うだろう。これも悪癖であるが、「殿、ご決断を!」と自分以外の存在全てに唱和されるまで一切の決断ができないという私が指定した難病を患っている。物理的に同時参加不可能とか、そういう状況まで追い込まれないと選べないのである。

 

こうやって言語化すると、自分のダメさ加減がありありと見えてくる。○なら○、×なら×と素直に言えたらいいのにな。

 ×が悪いことではないと重々承知はしているものの、やはり×ばかりなのはなんとなくバツが悪い。そんな申し訳なさも、△を多用してしまう一因になっている。

 日程調整においては○が正解、×が不正解を表さないことの意味をもう少し慎重にとらえ、その上で積極的な判断が求められているし、するべきである。

なんせ、大人数の調査をまとめ予定を組む人にとって一番扱いにくいのは△だから。

 

最後に、これは日程調査で△をつけた人への皮肉とかそういうものではなく、単に内省を述べたにすぎないものであり、逆に△を付ける人の心理はなんとなく把握しているので、仮に私が出した日程調査に△をつけたとしても私の目が三角になることはない、と付け加えておく。