色メガネ売場

目の届くかぎり広く、手の届くかぎり深く

7月8日午前0時、ラデツキーの夢を見た

だれも知らないことは、たくさんある。

例えば司会者の2つあるはずのスーツのボタンが着替えたときにはすでにひとつとれてなくなっていて、そのまま舞台に出たこと、とか。

例えば着替えがあるといわれて下手袖を追い出された司会者が、ならばと上手袖でひとりアフリカを感じていたら上手袖でも着替えがあることを失念していて迷惑をかけたこと、とか(副部長本当にごめん)。

例えば司会者が、9人ともうひとりの"引退"をとてもとても寂しく思っていること、とか。

 

知らないところでなにかが動き、次に会うときにはなにもなかったような顔をしている。

きみにとって、わたしは"なにもなかった"時間を過ごしたようにしか思えないから、そう見える。悪いことではない。当然のことだ。

空白の時間は、存外空白でないものだけれど。

きみは、それを知る術を持たない。あるいは、持ってはいけない。

わたしのことばかり考えていたら、きみ自身の時間が空白になってしまうよ。

 

源が違えど、通った道が違えど、各々の時間は流れていく。

きみが川の流れにさした特大の棹は、なにも変えちゃくれない。

ただひたすらに、流れ落ちるのみ。

それを誰が責めることができようか。

 

演奏者の集団。

そこには過去も未来もなく、ただ現在があるだけ。

過去や未来があるとすれば、実線でなく点線だ。

その点をまっすぐ結ぶだけで人間の過去が完成するなら、どんなに単純で楽なことだろう。

川は、まっすぐ流れない。

 

 

演奏の話は、正直言ってちゃんとはできない。

なぜかって?そりゃあ、緊張してたから。

演奏の間、ずっと下手袖で指揮のマネごとをして飛んだり跳ねたりして緊張をまぎらわせていたので、ちゃんと聞くことができなかった。言い訳としてはびっくりするほど幼い行為をもってきたものだが、どうか許してほしい。

司会は、添え物だから。バランが弁当の味を変えることはないから。

だから添え物なのに弁当の味を知っているのが、問題といえば問題で。

ひとつ噛んだら、ひとつコケたら、演奏会は少しでも確実に変質してしまう。

終演後、いろんな人に「つまらなかった!!」「出てきたときが一番面白かった!!」と大いなる褒め言葉をいただけたので、肩の荷が下りた気がした。

ひたすら徹するのにも、エネルギーがいるのだ。

 

良い演奏だったと思う。

1部。マーチは華々しく。センチュリアは聞き心地がよく。ゲールフォースは仕上がりに感心し。

2部。アフリカンシンフォニーは迫力で開幕を飾り。故郷の空故郷の空がまとまりとしては一番良かったかもしれないとさえ思った。ディズニー50thはフルートオーボエが立つところが好きなんじゃ。リトルマーメイドのソロ、3年前の彼女の姿が重なりちょっと泣きそうになった。

3部。天空への挑戦。5/4拍子の低音がとっても好きだった。さくらのうた。行き道に見た桜の木を思い出す。ステージの上で、それぞれどんな桜を思い浮かべていたのだろう。

 

2部の司会も衣装も、とてもステキだった。

こう後ろに書くと付け足してついでという感が尋常ではないが、実際ステキだったのだからどうしようもない。

塩MC、ザンシンだった。

 

そして、たなばた。

ハッキリ言おう。

演奏に関して、この曲を評価するすべは持ち合わせていない。

少なくともこの曲に関しては、添え物でいられなかったから。

 

曲が始まったとき、「演奏者は、ここで死ぬんだな」と思った。

どれだけ泣いても嘆いても、五線の上に踊る音符は無情に次への橋渡しを繰り返す。

流れを止めることは、放たれたら最後不可能。

そして演奏が終わるとき、演奏者は死ぬ。吹奏楽部と名付けた人生が、否応なしに途切れる。

 

だからこの曲は、レクイエムのように聞こえた。

命を終えて、空へ還っていく星たち。再会を喜ぶ彦星と織姫が、そのうちひとつ、名も知らぬひとつを指さして、星がきれいだねとほほえみあう。

 

吹いた瞬間に恐ろしい速さで過去へと駆け抜ける音の軌道が、流れ星の尾のようだった。

終わらないでほしかった。

ずっと、7月7日であってほしかった。

叶わぬ思いを、流れ星に託した。

 

中間部からティンパニとスネアが引き戻す華やかな景色。

不可逆な追い風が背中に吹いて、前へ前へと進ませていく。

ピッコロの方に目をやった。速いフレーズを待つ表情は、なにを思っていただろう。

トロンボーンの軽快なフレーズは、燃え尽きるロウソクの最後に見せる明るい灯火のようだった。

なにか、すべてがとても、美しかった。

終わるから、美しい。

美しいって、残酷だ。

 

全てを過去にして、演奏は終わった。

7月7日は過ぎ去った。

1年後の出会いを期して、織姫と彦星は再び背を向けた。

ステージと客席の間に流れる天の川。

9人とひとりが、渡っていった。

 

家に帰った織姫と彦星は夢を見たのかもしれない。

つらく苦しく面倒で長かった時間が、とても明るく、そして短く感じられるという夢を。

3分程度の、手拍子に包まれた夢を。

 

ひとりひとりがどんな天の川に揺られてここに来たかなんて、分かるはずがない。

それでも、いっとき同じ場所に流れつき、同じ時間を過ごしたのは事実。

少なくとも集まった天の川は、キレイだった。

 

 

だれも知らないことは、たくさんある。

例えばいつまで業者は業者としてトラックの上に乗り続けるのか、とか。

例えば後輩が何人増えて、パートがどう変わっていくのか、とか。

例えば来年の天の川の景色、とか。

 

 

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おつかれさまでした。

また来年、会いましょう。

「映画ドラえもん のび太の宝島」感想【ネタバレあり】

そんなわけで。いや、どんなわけかは知らないが、とにかく見に行ったのである。

 

sakushusen.hatenablog.com

 

sakushusen.hatenablog.com

 

sakushusen.hatenablog.com

 こんな感じで記事を何本か書いて、「見て!見て!」と催促したわりに、自分の尻を叩くのをすっかり忘れていた。

ようやく3月9日、瞳を閉じれば"ここにいないあなた"がまぶたの裏にいるこの時節、ひとり勇んで映画館入口のドアを開けた。

 

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ユナイテッドシネマとしまえん

この映画館で「ドラえもん」を見るのも、リニューアル後第一作「のび太の恐竜2006」以来12回目のことになる。(「宇宙英雄記」だけ別のところで鑑賞したのだが、ソレはどうでもいい話)

幼少時から今に至るまで映画ドラえもんは毎年の楽しみ。自分自身が"幅広い世代"の一角を、時を越えて担っているんだなあと、なんだか壮大なことを考えた。

 

さて自分語りはこれくらいにして、今年の映画の話に移ろう。

「映画ドラえもん のび太の宝島」(以下「宝島」)は、わさドラ13作目にして7作目のオリジナル作品。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの児童文学『宝島』をモチーフとし、のび太たちは宝島を求めて大冒険!‥‥というお話である。

スタッフについては特に新たに付け加える知識もない(前の記事で紹介はした)が、「脚本・川村元気」がこの映画のすべて、なのかもしれない。この方の作品をよく知っているわけではないが、"ドラえもん"をこの人のパレットで塗ったらこんな色彩になるのかと、ただひたすらそう思わされた。

どこぞの記事によると、今作の主題歌・星野源を発案したのもこの川村氏ということらしい。これまでの参加作品からしても、脚本にとどまらずプロデュースの一角も担っていたことがうかがえるというものだ。

 

さて、御託を並べるのはこのへんにして、映画の感想へとなだれ込みたい。

感想を一言で述べるなら、

「盛ったなあ」

というところか。盛ったといっても"誇張"ではなく"大盛"のほうである。

こってりラーメンもろもろマシマシを飲み干したような、そんな気分となった。

 

エンターテイメント性でいえばオリジナルの中でも上位に来る出来だし、悪い映画でないことは保証する。誤解を招きそうな言い方だが、"映画然とした映画"とでもいおうか。とにかく、娯楽という点では及第点以上の良い作品であったことは疑いようがない。

 

 

‥‥とまあネタバレ無しでの感想には限界があるので、これより映画のはらわたを引っ張り出してあれやこれやと言うゾーンに突入する。

 

"初見"というのは誰にも等しく与えられた貴い権利でありますからして、その権利をこんな場末の過疎ブログの前に捨てるような必要は万にひとつもない。映画未見の方は、タブを閉じてお近くの映画館への経路案内でも検索していただきたい。

 

では、続きを読む以降でお会いしよう。

 

※否定的な意見も含まれますので、あくまで自己責任で。

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コラム風を吹かせて

最近書く題材はゴマンとあるのだが、いかんせん時間と集中力がなく進まない。

 

というわけで、お茶濁しの過去作紹介。

 

 

むかーしむかし、学校新聞のコラム欄(天声人語を模したようなもの)に投稿したときの文章。高2の頃か。なんだか小難しいことを書こうと背伸びしているつま先がピョコピョコと見えなくもないが、個人的には気に入っているのでなんとなく載せてみることにする。

 

 

フクロウの首はよく回る。彼らには「福籠」といった類の縁起のいい当て字が多数存在するが、「副老」と当てれば将軍に仕える名参謀、広い視野を持ち知性に長けた言い得て妙の二文字だ。翻って人間の首は、振り返るのが精一杯。なればこそ、精一杯を極めるのも悪くない

◆すると、各々がこれまで辿ってきた道は数知れないはずなのに、記憶という言葉にまとめてみるといささか実体がないようにも思える。人間の記憶は、刻みつけられると同時に圧縮され始め、限られた格納庫の中で小さくなり場所を空けて次の記憶を待つ。その過程で、圧縮が過ぎた記憶はふるいにかけたように脳という格納庫の床の細かい網目をくぐりぬけ、露と消えていく。記憶の印象の強さは圧縮に対する抵抗力に比例する、だから考査直前に慌てて詰め込んだ用語は、一瞬の後に灰燼に帰し、ふるいを揺らすこともなく消えていくのである

◆さらに、記憶の中には思い出がある。振り返ることでふと蘇る、こうした思い出には味がついている。甘酸っぱかったり、苦かったり、読みは違えど辛かったり。限られた容量の中で、人間は記憶の吟味もまた行っているのだ

◆「記憶」から「歴史」というものに拡張しても、同じことが言える。すなわち、一つの存在は、微視的には自ら積み上げた記憶の土台と、巨視的にはその土台をちょこんと載せている巨大な歴史の塊の上に立っているのだ。人間はフクロウのようには飛べまい、だから唯一足元を踏みしめる他に生きる術はない。命を支える土台がいかにして作られたのか知ることの肝要さは、歴史が他人事ではなく、自分を押し上げている原動力の一つの源であることを証明するだろう。その先の歩き方を確たるものにするために、学生は歴史を、自らの礎を学ぶのである。前途が開けていて、かつ記憶力が衰えゆく前のこの時期に

◆歴史の塊が手のつけようもなく膨れているのもまた事実だが、それゆえ歴史の圧縮と吟味が求められるし、人間は先天的にその能力を「記憶」の機能で身につけている。首のよく回るフクロウが「不苦労」なら、人間は多少首が不自由で「苦労」しても、生きるために精一杯首をもたげて振り返る生き物なのだ。

とりとめのない雑記群

表題の通り、最近のちっこい出来事を並べるだけのエントリでござい。

 

・関西方面への旅行

ええ、行ってまいりましたとも。

京都、大阪、神戸、奈良と回って計10万歩くらい歩いたらしい。

断片的な模様はtwitterに載せておりましたけども、ヒマを見てこちらにも旅行記を書きたいと思います。読んでくれる人がいるかは知りませんが。

 

ドラえもんの映画

あんなに見て!見て!と騒いでおいてまだ見てないんですよねー。

ネタバレは踏まないように、慎重に生きる日々でございます。

公開前に書いた記事の外部アクセス数がいつもよりちょこっと多くて、ビビる私。

 

・若おかみアニメ化

とうとう青い鳥文庫にもそういう波が来たかッ!

そうなると待ち望み待ち焦がれるのは"はやみね作品"のアニメ化なわけです。

マチトムとか、コナンの前枠で見てみたい気もしております(怪盗クイーンはまじっく快斗とかぶっちまうしなあ)

ムリヤリ1話完結にしないで、キャラをじっくり掘り下げてゆっくりやってほしい‥‥完全な妄想。

あ、夢水シリーズはもう既にEテレで放送されている世界線に生きています。

 

デレステ

はじめて4ヶ月、もうすっかり日課となりました。

先日PLv.100とランクSを同日達成し、今後の活躍が期待されるプロデューサーです。

しかし"プロデューサー"とはうまい呼び名を考えたものですね。

アイドルって考察すればするほど面白い研究対象だと思うので、いつかそんな記事も書いてみたいものです。

最近の悩みはファストナイスおじさんと化していること(自前のコンボカッターの切れ味バツグン)と、ハイファイとTake me☆take youのイントロのリズムにいつまでたっても慣れないことですね。

担当の話はまた今度にしますけど、基本的にクールPっぽいです。

凛ちゃん、楓さん、美波、アーニャ、奈緒ちゃんのクールユニット最高です。

 

AKB48

アイドルつながりで。

2011~2013年くらいまではわりとしっかり追っかけてた者です。

その中で一番好きな曲を考えてみたんですが、やっぱり「チャンスの順番」な気がしてきました。

珍しく歌詞も"聞ける"し。音の王道感もいいし。

倉持明日香もいるし!

 

NMB48

アイドルつながりで。

一番上の関西旅行のついでに劇場前を通りかかってみたんですが、貼ってあった最新曲のポスター見て判別できたのがさや姉しかいなくて時の流れを感じたというお話。

まあ、昔もメンバーはあんまり追ってなかったんですが。

オーマイガーのサビ、もう忘れちゃって踊れないんだろうな‥‥。

 

SKE48

アイドルつながりで。

もう全然追っかけてないに等しいですね。ドラフト2期はともかく7期はすでに怪しく、8期はサッパリわからない。そもそも研究生が誰だかもわからない。もともと激しい血の入れ替えに、ついについていけなくなっちゃったのかもしれません。

1期生き残りはやっぱり珠理奈なんだなあとか、5期あと2人かあとか、ゆななガンバレとか、徒然に考えています。

アイドルの話、おしまい。

 

京アニさま

中二病かメイドラゴンかユーフォの続編をお願いします

 

・ヤクルト

青木が戻ってきてスタメン見るとスゲーってなるけど、春の風物詩みたいなものなので、桜の散るころ何人が戸田にいるのか、そんなクイズ正解は3ヶ月後的な悲しい想像。

名鑑今年も買った(7年連続同じ出版社の買って見栄えが良い)けど全然読めてない。ヤクルトのページが探しやすくていいよね、絶対一番後ろだもの。

 

・そういえば

某会で司会を担当することになっております。名前、噛まないようにしないとなあ。

 

・お仕事

公私ともにたまりまくってます。ピンチです。

誰か私のケツを叩きに来てください。

 

・ホワイトデー

(予定の欄が)ホワイトデー

 

・花見

誰か行きましょう

 

・後輩

元気ですかー?

もう3週間後?え?早くね?

またいろいろお話聞きたいです。

 

あとソフテニの後輩とご飯行きたいよねって思う。

 

・大学

twitterやめて気分が晴れ晴れしています。

着実にフェードアウトしているのでこの勢いですね(なにがだ)

 

・将来

ずっと文章書いて生きていたいよねえ

 

・書きたいこと

創作展ザ・ドキュメンタリー(セキラ・ラ・ランドに)

影キラメクノベライズ化(需要が見えない)

 

珍しくラフに書いてみました。またちっこい出来事がたまったらこんな感じで。

ほのかな違和感(裏) ~映画ドラえもん2018、その公開に寄せて

※最初に断っておくと、この記事ではドラえもんならびに星野源、そして今回の映画の内容をけなす目的で書いているわけではありません。今あげた3つ、すべて好きです。とても。

 

さて。

来たる3月3日。

桃の節句が運ぶ梅の香が、「映画ドラえもん のび太の宝島」の封切りを教えてくれる。

 

正直に言うと、こんな記事を書いているヒマなんぞ一秒もない。しかも2本も。けれど、年に一度のお祭りの前とあっては、あの青きタヌキを優先席に座らせざるをえない。

 

以前、主題歌など少しばかり情報が解禁された時期に、紹介記事を書いた。

sakushusen.hatenablog.com

 

今見ると、とてもテンションの高い記事であることよ、と感心する。それだけ、期待値が大きかったのだろう。

なんせ超・名作「新・日本誕生」、意欲作「南極カチコチ大冒険」という輝かしいバトンを受け取っての今作である。おそらく制作ラインがまったく異なっているとはいえ、この良い流れに心地よく転がされている身としては、期待して当然ともいえるだろう。

 

それが、「あ‥‥あれ?」と思い始めたのは、やはりこのPVを見てからということになる。

 

 

前の記事に書いたとおり、星野源は素晴らしい曲を持ってきてくれた。

サビのリズムが頭から離れない人を多数観測したし、星野氏がこの曲、ひいては「ドラえもん」への熱意を感じるエピソードも聞いた。こうして星野源を通して「ドラえもん」が発信されるということは「ドラえもん」界隈においても喜ばしいことだし、これを機にドラえもんに興味を持ったり、あるいは戻ってきてくれたりすることも期待できる。

 

なのに。なのに。なんだこの違和感。

 

 

形容できないこの違和感を抱えたまま転がして、なんとか整形した正体は、

 

"この映画の宣伝の中心は星野源である"

 

ということだった。

 

 

※繰り返しになりますが、星野源をけなすつもりは全くありません。

 

 

①これは予告編ではない

 

上にも載せたPVを見て、なによりも早く頭をよぎったのは、こんなことだった。

 

"これ「映画ドラえもん のび太の宝島」の予告編ってより『ドラえもん』PV(movie ver.)じゃね?"

 

ドラえもん』PV(movie ver.)が作られることには、なんの異論もない。『ドラえもん』が「ドラえもん」を歌った内容であるからこそ、なおさら作られてもおかしくないと思う。

違和感を覚えるのは、これが"予告編"という顔をしていることだ。

 

ついでにいえば、"予告編2"は過去作の本予告とほぼ等しい密度を持つ完全な予告編に仕上がっている。

これと先に紹介した"予告編3"を見比べると、映画の宣伝という点において明らかな差異があることに気づかないだろうか。後者は、"映画ドラえもん"ではなく"ドラえもん"の紹介をしてはいないだろうか。

 

もちろん、そうした宣伝方法が間違っているとは思わない。

ただ、ただ、私個人としては主題歌が映画の顔になるのはどうなのよ、と思うわけなのだ。

 

たとえそれがどんなに影響力を持つビッグアーティストであったとしても、大事なのは中身なのであり、主題歌は言ってしまえば本編の25分の1くらいの時間でしか流れないわけで、そういう中で主題歌をガン推しするのはどうなんでしょうねえ、と少々疑問に思わなくもない。

 

だから予告編3を"予告編"と言い切るのは、少々無茶がないかと、そう思うわけなのである。

 

確かに、挿入歌と主題歌を同一アーティストが担当するのはリニューアル後の作品においては初である。どう扱ったものか、宣伝時に困ったのかもしれない。

個人単位でも、挿入歌を使用した予告編2が例年のフォーマットに近くて受け入れやすく、少々新たな試みともいえる予告編3を異質なものとして無意識に拒否しているのではないか、と言われればそうだとも思うし、大したことではないのかしらん、とも思う。

 

星野源氏が疑う余地なくカリスマであり、それでもなお有名無実化することなくステキな作品を世に送り出し続けている姿勢への評価に一点の曇りはない。

だからこそ、その波に乗って宣伝を打とうとしたこの"映画ドラえもんの宣伝"の仕方に、違和感を覚えるのかもしれない。

 

蛇足だが、私の記憶(といってもここ10年ほどのものに限られるが)ではここまで主題歌がフィーチャーされたことはない。もちろん、Mステでの紹介やコラボなんかは毎年のようにあったし、歌唱アーティストを模したキャラクターがTVシリーズに登場したことも一度や二度ではない。

それでも、予告のタイトルにわざわざ(星野源 挿入歌ver.)とか(星野源 主題歌ver.)とかつけることはなかった。このあたりは次の項でも触れることになるだろう。

 

この項の締めくくりとして、映画の公式サイトで紹介されている予告編が予告編3(主題歌ver.)、つまり『ドラえもん』PVしか現状存在しないことを述べて終わりとする。どこにいった、特報と予告編2は。(youtubeチャンネルにはアップロードされているが‥‥)

 

星野源ファンの存在

 

最初に言い切ってしまえば、ファンというのはすべからく盲目だ。自分が好きなものに傾注するあまり、それと辺を共有する他の事象に目がいかなくなることは必ずある。

断っておくがこの記事も、"ドラえもんファン"を自称する私が書いているものであり、なんらかのバイアスとは不可分となっているはずである。

それを理解した上でお読みいただいていることをここでは確認したこととして、先に進む。

 

上で、こう書いた。

 

こうして星野源を通して「ドラえもん」が発信されるということは「ドラえもん」界隈においても喜ばしいことだし、これを機にドラえもんに興味を持ったり、あるいは戻ってきてくれたりすることも期待できる。

 

この言葉を否定するつもりはない。しかし、深刻性が段違いであることを承知でいえば、難民の受け入れ可否を議論する日本国のような現象がここでも起きうる、そんな予感がする。

 

ドラえもんファンを自称するものとして恐れているのは、"いち要素"を超える"浸食"である。

 

ドラえもん』という曲は、散々言っているように"本年の映画ドラえもん"にとどまらず"ドラえもん"そのものにまでスポットライトをあてた曲である。少なくとも私はそう解釈している。だから、「のび太の宝島」として書き下ろされた本曲であるが、汎用性が他の映画の主題歌に比べ高いといえる。

 

ここで、ひとつの考えが登場する。

「『ドラえもん』を、「ドラえもん」本編のOPテーマとして半恒久的に使用しないだろうか」

 

twitterを覗いた分だと、発言者の真意はともあれこうした発言もしばしば見受けられた。別に、非難されるような発言ではない。ファンとして思ったことを言ったまでなのだろう。

 

しかしどういうわけか、私はこうした考えに対して否定的な感情が先に出てしまう。

 

以前の記事で、そのことについて少し触れた。

・今年の映画の主題歌でOP曲がなんたらという話になっているけれど、やはり「夢をかなえてドラえもん」がしっくり来る。このままがいいなあ。

www.oricon.co.jp

↑この記事とか完全に「夢をかなえてドラえもん」を無視してくれてるんだよねえ‥‥。

 

なんというか、「今まで『夢をかなえてドラえもん』でずっとやってきたんだ」という、ある種ちょっとした自負があるのかもしれない。見当ハズレであることはわかっているけれど。だから、どうしても"新しいもの"に対して拒むチカラが出てきてしまうのだろう。

 

 

話を今回の映画に戻すと、主題歌を星野源が歌うということで、今までドラえもんの映画を見に劇場へ足を運んだことのない人がやって来てくれることが多分に考えられる。

 

そこで彼ら、彼女らが見るのはただの"ドラえもん"ではなく、『ドラえもん』のある"ドラえもん"である。そしてこうした種類の"ドラえもん"は、私の予想だと、あるいは私の願望だと、もう二度とないだろう。(もちろん、星野源大山ドラ映画における武田鉄矢に近いポジションを獲得する可能性がないとは言い切れないのだが‥‥そういうときが来たら、また考えることにしよう*1

 

せっかく見に来てくれた"ファン"を、言葉は悪いが1年で考慮外とするのか、来年も見たいと思わせるのか、という中で焦点となるのはやはり宣伝方法だと思う。

だからこそ、①の終わりで書いたように(挿入歌ver.)や(主題歌ver.)とわざわざ記載して星野源ファンを呼び込むだけの宣伝は、長期的に考えると好ましいことではないのではないか、と感じる。

 

モチロン、星野源氏が持つ圧倒的カリスマパワー(バカにしているつもりは毛頭ない)を"利用"したいという気持ちは理解できるつもりだ。これはあくまで興行。人が来るなら、どんな方法でもかまわない、のかもしれない。少しさみしいけれど。

 

まとめ

私自身星野源はよく聞くし好きな部類に入るアーティストなこともあり、なんだか歯にモノ挟まった言い方が多かったようにも思える。自分での整理も兼ねて、ここで要点をまとめておくこととする。なんども念を押すが、星野源氏のことがキライなわけでは決してないのである。

 

星野源氏をプロモーションの中心に据えるのは興行の面で理解できるが、映画の中心はその中身であるから、本編の予告をしっかりしてほしかった。

・『ドラえもん』は確かにいい曲だが、うちにはエース『夢をかなえてドラえもん』選手がバリバリ現役レジェンドなので、まだまだエースは譲れない、というのが個人的意見。

 

この記事に関して、賛同は全く求めていない。ドラえもんファンを代表するつもりは全くないし、星野源とそのファンをとやかく言う意図もない。ただ、私が個人的に感じたことを述べたまでである。

 

映画の公開、とても楽しみだ。

ナニを目撃するのか、ナニを耳にすることになるのか。

 

映画が公開されたら、またここで語ることになるだろう。

よろしければ、おつきあいください。

 

最後に

みんな今日(3/2)午後7時からの「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を見よう 面白いから

www.tv-asahi.co.jp

 

色彩がキレイな映画です。これまでの映画ドラえもんと比べても異質ともいえる作品ですが、本当に面白いので見てください!おススメします!!

*1:大山ドラ時代は毎作藤子・F・不二雄先生が脚本や監督を担当されていたためにそのような"鉄腕・武田鉄矢"ともいうべき起用法が可能だったのだろうが、今は制作ラインが1本ずつ異なるようだし、もう"鉄腕"が現れることはない、というのが現時点での私の結論である